生きづらくとも

憂鬱ななモノローグ

アルコールの効用

 体質的にアルコールをいっさいに受けつけない人は別にして酒を飲めば人は気分は高揚する。 泣上戸の人だって同じであれも気持ちの高ぶりによる感情の発露だ。

わたしのような人間も例外でなくアルコールが入ると思考が前向きになって饒舌になることもある。 酔いが落ち込みを誘発することもあるが饒舌であることには変わりがない。 傍目には単なる酔っ払いである。 酔ってるときは自分であって自分でない。 押し殺した普段の自分をアルコールの助けでさらけ出す人だっているだろう。 その時だけは解放された気がして楽しいかもしれない。 酔いが覚めると全てが幻想であったことに気づく。 このときの鬱な気持ちの苦痛はアルコールで得た束の間の楽しい時間にはとても見合わない。  

明日からやる

何度この言葉を吐いてきただろう。 

部屋いつ片付けるの?

明日からやる

 

いつ勉強するの?

明日からやる

 

 

ダイエットしてんじゃねーの?

明日からやる

 

 

 

 

ダイエットだけはしたことないけどいろんなことを明日からやってきた。 やると言ったけどほんとにやったか今では覚えていない。 多分やってない。

そしてこの年齢になってもまだ言う。

明日からやる!

ブルーマンデー

 自殺の多い曜日というのがあってそれは月曜日、時間でいうなら朝なのだそうだ。 つまりは休み明けの職場へ出勤する時間帯に相当するわけだ。 ようやく休みで一息つけた。ぐったりして日曜日を過ごしてあっという間に仕事へ行く月曜の朝を迎える。 わたしも何度も経験しているが週末まで引きずったトラブルなり何なりを一応は片を付けたものの今週もまだその後始末に追われるのかと思うだけで足は会社と反対の方向へ向く。抱えてる問題の深刻さによるがその受け止め方も人それぞれだ。そこからの行動はギリギリの危うい差しかないのだろう。

わたしは幸か不幸か駅のホームにたどり着く前に倒れたから飛び込むことはなかった。

日本人は勤勉ということになっている。果たしてそうなのだろうか。 労働は尊い行ない。 労働を苦行と認識して一財産築いて働く必要がなくなるとさっさとリタイアして余暇を自分の時間として生きる気質の国民とは違い日本人は働くことそのものに意義を見出す民族であるからたとえ高額の宝くじに当選しようと親から莫大な遺産を相続しても嘘か本当か仕事を辞めない、ことになっている。

でもそれは勤勉だからという理由ではなくて周囲の妬みややっかみを避けたくてそうするように思えて仕方ない。 日本人は本来的に勤勉であったというのがどうも怪しい。日本人は農耕民族で農業には休む日はないから狩猟で糊口をしのぐ大陸民族と比べると勤勉という説明がそもそもおかしい。 日本人がみな農業に従事したわけではないだろうし休み無しでは身体がもたないから交代で畑の世話するくらいの工夫があるのが自然である。 その規則を遵守しない、あるいは出来ない連中が共同体から排除されていったのではないか。 それから、狩も過酷な労働である。獲物を仕留めなければ飢えるのである。

わたしたちが当たり前のこととしている習慣や常識と呼ばれるものの中には伝統に混じって実は近代になって人工的に生み出されて押し付けられたものが少なくない。一例を挙げれば冒頭の電車もそうだ。 日本の鉄道の時刻表通り正確に運行されていることが諸外国からは驚きの対象であるらしい。 しかし鉄道が日本に敷かれるのはわずか100年ほど前に過ぎない。 それまでの圧倒的に長い日本の歴史に分刻みあるいは秒刻みで営まれる作業が続いてきたとはとても信じられない。 ある時期に取り決められたことを国民が結果としてそれを守り続け今日に至っていると考えるのが自然である。 人間の特性として機械のように正確に作業する能力は付与されておらず人間から見れば下等とされる動物たちが当たり前のように備えている本能も消失しているから正確な時間を認識するにも外部からの情報に頼らなければならない。

月曜日の朝はとかく憂鬱な気分にさせ、ときに人を自死に追い込むことがあるという話から妙な展開になってしまったが、わたしが言いたかったのはまず一度常識を疑い習慣に縛られることはないということだった。 資本主義の世界では何らかの労働の対価として報酬を受け取り生活の糧とする。

だからといって月曜日の朝にどうしても足の向かない仕事場に行くことはないのだ。 それで誰かに迷惑をかけることはあるだろう。 だがホームに入る電車に飛び込む迷惑に比べると微々たるものだ。 辛抱して出社して仕事をこなしたとしよう。やがて時間を経て職場だけでなく家族に大きな迷惑をかけることになる可能性を常に念頭に置くことも重要だ。なんの得にもならない使命感や義務感と天秤にかけたとき、どちらが大事だろうか。

「英語の時代」はやって来ない

とはいえ「英語の時代」がやって来ると言い換えてもいい。この二つは正反対のことを主張しているようで本質的にはコインの裏表と同じでその時々で違う柄が見えるだけだ。見ているのは同じモノである。

これからは英語が出来るのが当たり前になる、英語を使って何が出来るか、それが重要になると貿易関係の会社を経営していた叔父にそう言われたのが30年以上前のことだ。 それが現状を見渡してみるとどうか。 日本人の英語力は以前として向上することなく英語が出来ることは立派な飯のタネである。 そういう意味ではこの国はすでに英語がどっぷりと社会に根を下ろしている。 すでに定着しているものがこれからやって来ることなどないのだ。

「英語の時代」に英語が生きる上で必携のスキルになるとの意味を込めてられてもいるのだろうけれどこれも眉唾物である。 確かに一部の企業では従業員の採用や昇級に英語力の有無に重きを置くところもある。  ただ全体としては圧倒的に少数派である。 英語力の意味するところが会話も読解もネイティブスピーカー並みで例えば社内会議が英語のみで円滑に進行することならこんなものは何の意味もない。 その会議のメンバーの半数以上が日本語を理解できず従って英語でコミュニケーションをとらないことには何事も前に進まない状態になってはじめて英語力が欠かせないツールになるがその社会はもはや日本ではない。 激増する海外からの旅行客への対応に関しても同じことが言える。 サービス業に従事する人で日常的に海外旅行客に接する割合はいかほどのものであろう。海外からの客も数多く足を運ぶ地域で商売を営む知人は日本語の通じない客にはご遠慮願っているとのことが。その良し悪しはともかく、それで十分商売が成り立つことが重要な線引きなのだ。 内需だけではサービス業が立ち行かないならこれまたもはや日本ではない。 そもそも海外との交流なりビジネスに駆り出されるのがいつも英語なのが解せない。  むしろ英語圏でない国々の人々を積極的に進めているのが現在の日本なのだから。

それでも英語を習得する必要があるとするならまさに「英語の時代」が今後もやって来ることはないからということにほかならない。 文科省が指導要領にいくら手を加えようともそれは変わらない。母国語だけで文化から商売まで完結する日本においては英語など出来なくとも生きていけるのだから当然だ。 皮肉なことにそれが英語ビジネスを支える。

繰り返すが母国語である日本語で生きていけないならその国はすでに「日本」ではない。 そうなれば英語の時代もへったくれもない。

 

土曜日の夜は…

土曜日の夜はワクワクしたものだった。翌日が日曜だからってのもあるし、土曜日はなんてったってドリフの日だったから。

子供の頃にあんなに夢中になっていたのに大人になってみるとドリフの何がそんなに面白かったのかわかんない。アスピリン片手のジェットマシーン。眠剤片手にiPhoneをいじる。

そんな土曜日の夜。意味わかんない。f:id:saikusasatoshi:20180224235916j:image

鬱の治し方、求める情報はどこへ行けば見つかる?

インターネットが登場した当時膨大な情報に瞬時にアクセスできることに皆が狂喜した。国会図書館まで出向いて面倒な手続きを経て目当ての文献を手にして目を通すまでの行為がパソコンとネット回線さえあればそんなことをする必要もない。

とはいえインターネットの黎明期はハードの性能に加えて脆弱なインフラゆえの致命的に遅い通信スピードに苛々するばかりで果たしてこれは本当に便利なのか疑問に思わなくもなかった。それから時が経ち現在のネットを取り巻く環境は飛躍的に進歩して生活そのものをも激変させてしまった。データという形の無いものにとどまらず商品や製品という目に見える現物までがネットを介して簡単に手にすることが出来る。決済も一瞬で片付く。 AIスピーカーに至っては洒落か冗談かこれはSFの世界で子供のころに見ていたものではないか。『銀河鉄道999』には機械が人に代わって労働から身の回りの世話まで何から何まで面倒を見てくれるため動く必要のなくなった人々は異常に肥満化して自宅から出られない様がシニカルに描かれるエピソードが登場する。 これはもう絵空事ではなくなってきている。 少なくとも自宅から一歩も外に出ずに生活できる世界は目前にある。

少々回り道してここでタイトルに話を戻す。日進月歩のインターネットから得られるものは膨大で高速化しているのに本当に自分が欲する情報はどこをどう探しても見つからないのはどういうわけか。 精神を病んだ誰しもがわたしと似た経験があると想像するが自分の身に起きていることが理解出来ずにそれこそ答えを見つけようとネットを漁ったものだ。 医師から診断名を告げられても自分の知る鬱病患者というのは映画やドラマの中の人達であれは今から考えるとかなり誇張されていたり恐ろしくステレオタイプに描かれていて自分を苦しめている症状とは似てもつかなかったから本当のところを知りたかった。 クリニックの先生の説明も手伝ってほどなくして現実の「鬱病」の実態がわかってくると安堵と同時に絶望感も味わったのだけれど問題はこの後からはじまる。

次に考えることはこれまた誰しも同じだろう治療するには何が最適かどうすれば元のような思考ができ身体が自由になるのかその方法を探して廻った。専門の医師から体験者まで数多くの人がブログや動画で情報を発しているがその中身は鬱病に罹患する原因やその予防法に終始するばかりでどうやって治療するのか一番大事なことには触れない。 これまで何百もの患者を治したと胸を張る医師もあの治療ではダメこの治療ではダメとは言ってもどうすればいいかは語らない。 自責の念が鬱の大きな要因のひとつなのでまずは現状を受け入れて自分を好きになることが大事だなんてふざけた話である。 自分を好きになれなくて消えて無くなってしまいたいと考える人間に対してそんな言葉は何の救いにもならない。

自身の運営するクリニックへの来院を促す医師もいた。 ネットを使ってのプロモーションである。 決して短くはない時間を費やして効果的な処方箋を求めて彷徨っても未だに答えにはたどり着けないでいる。 こんなときに人は怪しげな信仰宗教に寄りかかったりもするのだろう。

余談になるがこうすればブログのアクセス数が増える人気のブログが書けるとうたう記事もだいたい同じようなことしか言っていなくて決定的な答えはない。 もっとも仮に決定的な答えがあったとして誰もが会得可能な手法であればあっという間に陳腐化して結局抜きん出ることは出来ないのだろうけれど。

好きなジブリ映画は何ですか?

 当たり前のようにこう尋ねられることがある。皆がジブリ映画を観ているという前提がまずあってかつ作品に対して概ね好意的であるとの共通認識が無ければこんな問いかけはしない。多数派とおぼしき一群の一員であるとき人は異なる嗜好や思考があることに想像が及ばない。あいにくジブリ映画のほとんどを観ているがそんなことはここではどうでもよい。長い間にわたって多勢の人から支持されてきたとはいえジブリの受けとめられ方はちょっと度が過ぎてる。 消費者の絶対数の量で劣るといっても好きな村上春樹の小説は何ですか?と尋ねられることはまずない。 

好きなテレビ番組は何ですか? というのも困る。 テレビを観るのがごく当たり前の時代はとうに終わったとまでは言わないがテレビが映し出すものにもはや好きも嫌いもない。 テレビは情報受信機器というよりは家具のような存在でただそこにある。いいとこ家電である。 他愛ない世間話からの話題に適当に合わせていられないくらい鬱が辛いときは馬鹿正直に答えてしまうからさぞかし厭なヤツだと思われているはずだ。

話はいきなり飛び季節は夏の暑い盛り。どこか訪ねたり招かれたりするとスイカが何の前触れもなく出されることがある。夏といえばスイカ、外は暑かったでしょ、冷えたスイカは美味しいですよ。と口には出さないけれど笑顔でどうぞとされると同じことだ。 スイカが何よりも嫌いな人間がこの世にいるとは考えないのだろうか。 スイカは嗜好品だ。主食ではない。 好きでない人間がいたって少しも変じゃないのに、スイカが苦手というと気まずい空気になる。 冷えたスイカがあるんだけど、とかなんとか前もって一言でもかけてもらえれば断り方もスマートになるのに、そこまで求めるわたしの方がこの場合でも厭な奴なのだろう。